2月25日(日)の太平洋標準時間(PST)の午後5時から恒例のアカデミー賞の授賞式が行われ世界中にその模様が放映されました。アメリカでは年1回の映画産業最大のイベントになりますから、まあ例えとしては、よくないのかもしれませんが、年末の紅白歌合戦のような一種のお祭りでもあり、しかも映画界にとって今後のDVDなどの売れ行き予想や俳優のギャラを決める評価に直結するビジネス上でもきわめて重要なイベントであります。
どの作品や監督、主演男優、主演女優がそれぞれのベスト賞に選ばれるか、もちろんそれらが衆目の的になるのは事実ですが、むしろそれらよりも今年は誰が授賞式の司会をするのか、それも大変気になります。アカデミー賞の授賞式を務める司会者というのは、一度この授賞式をご覧になってみられた方ならもうおわかりかと思うのですが、紅白歌合戦の赤組白組の司会者とはまったく次元の違う、超ハイレベルな全能力を要求される激務を強いられる大変な役割です。
今年の司会者は、コメディアン系のエレン・ディジェネラスで、私が知る限りではアカデミーの授賞式での初めての女性司会者ではなかったのはないでしょうか。毎年のアカデミーの司会者は、コメディアン系の人が務めているのが伝統になっているのですが、その伝統を今年も引き継いでいるのはエレンを見れば明らかですが、それ以外は、アカデミーはちょっとした冒険というか賭けに出たような気がします。それは単に彼女が女性だからというだけでなく、彼女は、誰しも知るところのゲイ(正確に言えば、レズビアンですが、同性愛者を一括してゲイと呼ぶことの方が最近は多いようです)であって、自分がゲイであることをテレビのトークショーなどで堂々と笑いのネタにして人気を博してきたコメディアンだからなのです。
その意味では、アカデミー賞の選考委員会や企画委員会もずいぶんリベラルになってきたことが今年の授賞式からは感じられた次第です。性差はもちろんのこと、人種、肌の色、宗教、出身国による差別を1964年に制定されたアメリカの法律(公民権法第7章)で明確に禁じていますので、当然それらはさまざまな社会の中で浸透し、統一されてくるはずなのではありますが、アカデミーのような伝統ある組織や業界団体では、やはり本音と建前の違いからくる選考結果が長い間存在してきたこともまた事実なのであります。
そのギャップを埋めるために白人男性のコメディアン系エンターテイナーを今年は使わずに、女性でゲイでというエレン・ディジェネラスを起用したというのは、アカデミーも時代に即して変貌する組織であるのだというメッセージを発していることをつぶさに感じることができました。エレンの発したジョークの多くは、いかにも女性らしい、どちらかというと“キュート”なジョークで、男性がよく発するダーティ・ジョーク(いわゆる下ネタ)とは対極をなしていて、とてもクリーンな印象を最後まで聴衆に与えて続けてくれていたように思います。
毎年アカデミーの授賞式で感じるのは、各賞でノミネートされた作品や俳優を紹介する俳優たちがジョークを発することが多いのですが、けっこう全然面白くもないジョークだったりするのです。やはり今年もそれらしき、ぜんぜん面白くもない、しらけたジョークがいくつかありました。やはりコメディアン系ではない俳優がきまじめそうな顔をしてジョークらしきものを無理に発してもダメなんだなというのがよくわかります。そのようなタイプの人はジョークをアカデミーのような大事な大舞台であえて発するべきではないと思います。
渡辺謙がカトリーヌ・ドヌーブとともに外国フィルム作品賞の紹介をしましたが、カトリーヌが大変雄弁であったのに対して、渡辺謙は、きわめて控えめで、彼女の後を追って付け足すような語り口、しかも残念なことに英語の発音が不明確で聞き取りにくかった印象が否めませんでした。しかし、日本人の国際派俳優としてアカデミーでの作品紹介役に抜擢されたことはひとつの大きなマイルストーンではないかと同じ日本人として誇らしく感じました。
「硫黄島からの手紙」が作品賞を取れなかったり、菊池凛子が助演女優賞を逃しても、今年のアカデミー授賞式は、今後の日本の映画界や映画人にとってもひとつのエポックメーキングになっているように思いました。ハリウッドももはや日本の俳優や映画人とのコラボレーションなくして、よい作品が作れないという時代の到来を感じさせます。以上が私の感じた今年のアカデミー授賞式でありました。
PS. パシフィック・ドリームス社のサイトにも是非お立ち寄りくださいね。サイトは毎日更新しています。http://www.pacificdreams.org
どの作品や監督、主演男優、主演女優がそれぞれのベスト賞に選ばれるか、もちろんそれらが衆目の的になるのは事実ですが、むしろそれらよりも今年は誰が授賞式の司会をするのか、それも大変気になります。アカデミー賞の授賞式を務める司会者というのは、一度この授賞式をご覧になってみられた方ならもうおわかりかと思うのですが、紅白歌合戦の赤組白組の司会者とはまったく次元の違う、超ハイレベルな全能力を要求される激務を強いられる大変な役割です。
今年の司会者は、コメディアン系のエレン・ディジェネラスで、私が知る限りではアカデミーの授賞式での初めての女性司会者ではなかったのはないでしょうか。毎年のアカデミーの司会者は、コメディアン系の人が務めているのが伝統になっているのですが、その伝統を今年も引き継いでいるのはエレンを見れば明らかですが、それ以外は、アカデミーはちょっとした冒険というか賭けに出たような気がします。それは単に彼女が女性だからというだけでなく、彼女は、誰しも知るところのゲイ(正確に言えば、レズビアンですが、同性愛者を一括してゲイと呼ぶことの方が最近は多いようです)であって、自分がゲイであることをテレビのトークショーなどで堂々と笑いのネタにして人気を博してきたコメディアンだからなのです。
その意味では、アカデミー賞の選考委員会や企画委員会もずいぶんリベラルになってきたことが今年の授賞式からは感じられた次第です。性差はもちろんのこと、人種、肌の色、宗教、出身国による差別を1964年に制定されたアメリカの法律(公民権法第7章)で明確に禁じていますので、当然それらはさまざまな社会の中で浸透し、統一されてくるはずなのではありますが、アカデミーのような伝統ある組織や業界団体では、やはり本音と建前の違いからくる選考結果が長い間存在してきたこともまた事実なのであります。
そのギャップを埋めるために白人男性のコメディアン系エンターテイナーを今年は使わずに、女性でゲイでというエレン・ディジェネラスを起用したというのは、アカデミーも時代に即して変貌する組織であるのだというメッセージを発していることをつぶさに感じることができました。エレンの発したジョークの多くは、いかにも女性らしい、どちらかというと“キュート”なジョークで、男性がよく発するダーティ・ジョーク(いわゆる下ネタ)とは対極をなしていて、とてもクリーンな印象を最後まで聴衆に与えて続けてくれていたように思います。
毎年アカデミーの授賞式で感じるのは、各賞でノミネートされた作品や俳優を紹介する俳優たちがジョークを発することが多いのですが、けっこう全然面白くもないジョークだったりするのです。やはり今年もそれらしき、ぜんぜん面白くもない、しらけたジョークがいくつかありました。やはりコメディアン系ではない俳優がきまじめそうな顔をしてジョークらしきものを無理に発してもダメなんだなというのがよくわかります。そのようなタイプの人はジョークをアカデミーのような大事な大舞台であえて発するべきではないと思います。
渡辺謙がカトリーヌ・ドヌーブとともに外国フィルム作品賞の紹介をしましたが、カトリーヌが大変雄弁であったのに対して、渡辺謙は、きわめて控えめで、彼女の後を追って付け足すような語り口、しかも残念なことに英語の発音が不明確で聞き取りにくかった印象が否めませんでした。しかし、日本人の国際派俳優としてアカデミーでの作品紹介役に抜擢されたことはひとつの大きなマイルストーンではないかと同じ日本人として誇らしく感じました。
「硫黄島からの手紙」が作品賞を取れなかったり、菊池凛子が助演女優賞を逃しても、今年のアカデミー授賞式は、今後の日本の映画界や映画人にとってもひとつのエポックメーキングになっているように思いました。ハリウッドももはや日本の俳優や映画人とのコラボレーションなくして、よい作品が作れないという時代の到来を感じさせます。以上が私の感じた今年のアカデミー授賞式でありました。
PS. パシフィック・ドリームス社のサイトにも是非お立ち寄りくださいね。サイトは毎日更新しています。http://www.pacificdreams.org
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