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125日付日経新聞の文化面に米国生まれの作家、リービ英雄氏の書かれた随筆が掲載されていました。リービ氏は、もともとは米国籍の白人でありながら日本に帰化して、日本語で日本人でも到底書けないような繊細なタッチでの小説を編み出し、日本でのいくつかの重要な文学賞をも受賞なさっている気鋭の作家です。リービ氏のその随筆の中で、戦後日本を代表する作家の一人である安部公房とのやりとりをひとつのエピソードとして紹介してくれています。
 
そのエピソードとは、アメリカ公演を行うために安部公房の書いた戯曲「仔象は死んだ」の脚本をリービ氏が英訳作業をしていたとき、劇団の稽古場まで出向いていくつかの質問を氏に直接したときのことです。「象が」で始まる台詞の英訳で、その象というのは、“Elephant”であるのか、それとも“Elephants”であるのかという、日本語にはない英語の単数形であるのか、複数形であるのかの質問でした。そのリービ氏の発した質問に対して、安部公房は、ひとこと「分からない」と答えたといいます。そして続けて「我々日本人にはそんな区別はしない。だからリービ君が自分で決めなさい」と。そのとき初めて、リービ氏は、確かに「象」は一頭でも二頭でも同じに思えてきたといいます。帰りの電車から見える光は、おびただしいにもかかわらず、aでもなくtheでもなく、ましてやsもつかない、ただの「光」だということに驚きを覚えたと述懐されています。
 
そしてリービ氏が日本語で書いた処女作「星条旗の聞こえない部屋」が今年初めて英訳され、アメリカで出版されることになったといいます。その英役を担当したアメリカ人のまだ若い翻訳者が、英訳の質問を抱えて氏に会いにこられたそうです。著書の日本語の原文の中で、「日本人ガードマン」の記述があり、翻訳者は、「その日本人ガードマンは、一人ですか、二人ですか?」とリービ氏へ質問をしたところ、氏は、しばらく考えた末に「分からない」と答えたと云うのです。「申し訳ない、本当に分からない。」氏も若い翻訳者もしばらく無言に沈したといいます。しかしリービ氏はその無言の戸惑いの中にも、胸の中から小さな喜びも湧き上がってきたそうです。
 
以上が、日経新聞に載っていたリービ英雄氏の随筆に含められていたエピソードでした。私も英語で文章を書き、それをパワーポイントを使ってプレゼンとして発表したり、メールでアメリカ人のビジネス先に送ったりしています。重要度の高いビジネスレターやプレゼン資料などは、私が自分の英語で書いた後、妻のアイリーンに頼んで、英語のネイティブチェックを入れてもらっています。そのとき、毎回ほぼ間違いなく訂正を余儀なくされるのが、冠詞の使い方と単数形・複数形の欠如のところなのです。日本人の脳というか、遺伝子であるDNAの中には、およそ単数形や複数形といった概念はほぼ完全に欠如していて、しかも日本語の中には、冠詞という文法上の一種の枕詞が存在していません。日本語には概念がなく、存在もしていないのですから、この2つを訂正することは日本人にとっては、常につきまとう永遠の課題であり、完全には修正不可能であるチャレンジであるとさえ申せます。
 
それは、何も私の英語力がもともと劣っていることに対しての言い逃れで用いているわけではありません。逆に云えば、英語ネイティブのDNAの中には、無意識下の状態で、単数形と複数形との区別があり、そこにaがついたり、sがついたりするわけです。そうしないと文章が前に進まないのだろうと想像されます。英訳作業もそこで停まって滞ってしまうのです。日本人の書く英語は、そんなことには一向に無頓着ですから、ネイティブからの指摘を受けて初めてああここは単数形だからaにすべきだったのだな、とか複数形だからsが当然つかなければいけなかっただねと言われて初めて気がつく始末です。日本人同士であれば、そんなことを気にせずとも意志は支障なく通じ合いますが、英語ネイティブは、やはり座りの悪い椅子に腰掛けているような感触を抱かれるようで、何度も読み返しをして、単数形と複数形との混同や冠詞の欠如を見抜くことによって、あらためて日本人の書いた英語の文章の意味を理解するようです。
 
私の妻は、私のそのような英語を20数年見てきているので、日本人の書く英語のそのような傾向を当然かもしれませんが、よく理解してくれています。しかし、そのような日本人といままでに一緒に仕事や話をしたことのない普通のアメリカ人ですと、やはり日本人の書く英語や話す英語には違和感が募り、意思疎通は簡単ではありません。英語をはじめとする多くのヨーロッパ語圏には、かならず単数形・複数形の違いがあり、そのためかどうかは分かりませんが、冠詞というものも存在するという特徴があるのに対して、アジア語圏では、どうもそのような特徴を持つ言語は定かではないのですがないような感じがいたします。これは、洋の東西でわかれる言語上の大きな違いであり、人々の文化や考え方にも重要な違いを歴史的にももたらしているような気がいたします。私は、言語学者ではありませんので、これ以上詳しい説明は出来ませんが、単数形・複数形の概念は、遺伝子上での有意差から来る奥深い脳の働きの違いではないかとリービ氏の随筆を読んで感じた次第です。
 

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