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今回はちょっとお堅い話になりますが、おつきあいください。 まずは、コモンセンス、英語で書けば“Common Sense”になりますが、日本語にすると「常識」ということになります。 これも明治初期にかの福沢諭吉翁が翻訳した訳語だと聞いております。 一方のフェアネス“Fairness”は、「公正」ということになりますが、日本語では、フェアプレイといった使われ方の方がより一般的ですね。

さて、今回は何を言いたかったのかといいますと、日本にいるとこの「常識」という言葉が社会生活の中ではえらく幅を利かせて耳に届くのに対して、アメリカにおりますと、“Common Sense”という言葉は日常生活やビジネスの世界においても、ほとんど耳にしないということに気付かされます。 一方で、一般アメリカ人からは、「彼のやり方はフェアであるとか、アンフェアだ」とかいう言い方をよく耳にします。 もちろん日本にいてもそれなりに聞こえてくる言葉ではありますが、アメリカ人の使う頻度に比べると、かなり少ないのではないでしょうか。

日本では、「彼は常識のない人だ」というとかなり辛らつな批評になります。 一方でアメリカでは、「彼はアンフェアな人間だ」といわれれば、やはりかなりよくない評判の人間だということになります。 それでは、なぜアメリカでは「彼は常識のない人間だ」というような言葉を聞くことがないのでありましょうか。 その代わりにフェアかフェアでないかを使った表現がなぜそう頻繁に彼ら/彼女らの口から出るのでしょうか。

それは、もともとは移民から構成されて出来上がった多民族国家であるアメリカでは、出身国や背景文化、宗教、人種、言語、教育レベル、世代などが違えば、“共通した認識”(それこそが、英語で言うところの“Common Sense”に当たります)が異なってしかるべきなわけで、それらの個々の相違を縦断するような“Super Common Sense”というようなものは、この国には存在していないからに他なりません。 一方の日本は、起源をさかのぼれば他の近隣アジア諸国からの移動で成り立った国だという解釈に行き着くものの、恐らく90%以上は代々日本生まれの日本人として、国家単位としてはきわめて均一性(Homogeneity)の取れた国でありますので、「常識」という装置が社会やビジネスの中にあって横断的に機能しているわけなのです。

それでは、「常識」という装置が社会やビジネスで機能していないアメリカでは、いったい何がガイドラインとして、日本で言う「常識」に近い形で機能しているのでしょうか。 それがフェアネスという概念ではないかと思われる次第です。 この考え方自体は、中世以降、主にイギリス(イングランド)で発展してきた概念であると理解しています。 その意味においては、アメリカはやはりアングロサクソン的影響が最も強く影響している国家であるという言い方も出来るかもしれません。 しかし、そのアメリカには、本家イギリス以上に、契約や法律の概念が強く浸透し、さまざまなエリアで独自に発展してきたとも観察できるのです。

フェアネスの概念は、契約や法律に色濃く影響を与えていますので、それを破ってアンフェアな行為が発覚されれば、後は訴訟沙汰になりかねないという事態が頻繁に起こりうるわけです。 そこには常識があるとか、非常識であるとかいった判断基準はほとんどありません。 そこが小さい頃から、家庭や学校で常識とは何たるかを叩き込まれて育ってきたほとんどの日本人のご同輩にとっては、契約社会であり、訴訟社会であるアメリカに対して抱く“脅威”になるであろうということは容易に想像がつきます。 それでも“郷に入らば郷に従え”で、20年を超えるアメリカでの生活者である私の経験から言えば、“恐れずに足らず”ということもいえるのですが。 このことは、また近いうちに書いてみたいと思います。



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