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皆さんは、アメリカ人と話をしているときに、仕事上で相手に何か問題解決を依頼したいときや、条件変更などをお願いするようなことがあると、アメリカ人からは、きまって冒頭に挙げた生きのよい言葉がすぐに飛び出してくることをきっと何度もご経験されたことがおありなのではないでしょうか。本当にそうであるのなら、こんなありがたいことはないのですが、1度ならず2度、いやいや毎度この言葉に出くわして、見事に期待を裏切られた、苦いご経験をお持ちの方にとりましては、もはやこの言葉は警戒を要する以外の何ものでもないというように聞こえてしまいます。

私の経験でも、ほとんどのアメリカ人は、50%程度の確率で自分ができると思えば、ほぼ例外なく、この威勢のよい言葉を口にします。私個人の観察からですが、10%ぐらいの確率であってもこう言い切る人もいるような気がします。一方の私たち日本人は、彼らと比べてどうなのでしょうか。恐らく、限りなく100%に近い確率でなければ、このような堂々と自信に満ちた言葉は口をついて出てこないのではないかと思われます。ややハッタリ気味の傾向があるこの私でさえ、やはり80%程度の確率がなければ、人前でこのような言葉を口に出すのは気が引けます。

ですから、日本人としては、アメリカ人の威勢のよいこの言葉をそのまま鵜呑みにしてはならないのです。まず話半分として聞いておき、彼らは建前上、そのように言っているだけなのだ程度に解釈しておいた方が無難です。アメリカ人は、熾烈な自由競争社会を生き抜いているので、たとえ50%に届くか届かぬかの確率であっても、まずは「できる」という意思表示をしておいて、競争のスタート台についておかなければならないという考え方にもっぱら支配されています。「できない」という言葉は、人生の落伍者であることを自らさらけ出してしまうようなものだからなのです。

とりわけアメリカ人の中でも、きわめて優秀な人間がこのような言葉を割りと平気で軽々しく使う傾向にあります。彼らは、学生時代から成績優秀者の類であって、会社の中でもやり手として通しているタイプの人間です。そのような人間から“No Problem“と言われれば、信頼して、任せておけばよいではないかという気持ちになるのは、日本的な人情でありまして、相手に任せることで議論をその時点でやめてしまうと、あとで予期しない苦渋の事態を経験することになるのは、火を見るよりも明らかとなります。

“No Problem“という言葉に惑わされず、むしろその言葉は言われなかったこととして、彼らと徹底的に議論を尽くしていかなければなりません。それによって、淡い期待感や不透明な思い込みの部分を排除することができ、問題の核心部にお互いがまっすぐに向き合って議論を戦わせることが可能になるのです。